不意打ち的に東京新聞での江川達也の連載コラムを読みました。
手元に新聞があるわけではないので自分なりの要約をするなら「漫画家は勉強のできな馬鹿がつく仕事だ。漫画は表現としても未熟」といった所で、(自分のような有能な人間が散々研究しても有効な表現見出せない)漫画という表現フォーマットの未成熟さと漫画家の不勉強さに散々悪態をついた後で最後に「(職業)漫画家」と記されるのがチャーミングすぎる電波文ですが、こんなぬるい表現では到底原文の魅力をいいあらわせる筈もなく、更なる精神的ダメージが自分に降りかかるという最悪すぎな状態に(笑

しかしこれは果たして自虐なのかアイロニーなのか、直言のつもりなのか、単に気が狂っての発言なのかさっぱり判りません。とりあえず「確かに貴方の漫画からは源氏物語の魅力や日本の軍人たちの偉大さ苛烈な戦場の有様は伝わってきませんね」という突込みが頭に浮かびましたが、どう考えても毒にも薬にもなりそうにもないよなぁ。

普段は主にサッカー方面の言説で様々な電波に接していたつもりですが、ごめん。サッカー界の電波なんてこの江川発言の凄まじさに比べれば草原を吹き抜ける風のようでした。世界は広すぎです。

GIANT KILLING(1) (モーニング KC)

GIANT KILLING(1) (モーニング KC)

普段はふざけている達海の真剣な表情から目力が感じとれるのがいいね。
そして負け続けるチームという現実を前にチームを愛する心を失いかけていたおやじ達が、かつてのチームのアイドルを復帰に童心に返ってはしゃぐシーンが好きだ。というかここで、自分の涙腺を刺激する何かが、かつての自分自身の姿に繋がる記憶のどこかに触れてしまったようだ。確なイメージや言葉を伴ったものとしては思い出されはしないけれど、確かに自分の周りに存在していたものーが何かということは自分には判らなかった。もしかしたら単なる錯覚なのかもしれない。だけれども、そういった感情だとか記憶なのかもわからないもやもやしたものを思い出させてくれただけでも、この漫画を読んだ甲斐があったと思った。しつこいようだけれど、単なる妄想かもしれないですが。

まぁ、そんな事は抜きにしてもこの漫画は面白い。同じ雑誌で三田先生が連載をしているせいかサッカー版のドラゴン桜、もしくはクロカンといった印象もどうしてもちらついたりするのはさておいてですが。細かいところでは、単行本化されているわけでもないスリーストラクスの名前が載っているのには何がしかの意思を感じないでもない(笑)

チェーザレ 破壊の創造者(3) (KCデラックス)

チェーザレ 破壊の創造者(3) (KCデラックス)

帯の女性は妹の一択か。
二巻でロレンツォ・デ・メディチレオナルド・ダ・ヴィンチコロンブス。そして3巻では満を持してマキャヴェッリが登場。連載開始当初はこれは学園漫画なのか?と思えた程ののんきな展開に頭をかかえていましたが、一枚岩にみえた関係の破局も予感させる3巻の締めとなるミケロットとアンジェロの会話、イタリアの要石であるロレンツォの退場が予告された事で次巻以降は大きく話が動き出しそうで漫画的にも面白くなっていきそうです。イタリアにとってはたまったものではない酷い歴史ですが。
『新しい歴史教科書』の“正しい”読み方―国の物語を超えて

『新しい歴史教科書』の“正しい”読み方―国の物語を超えて

つくる会」関係の議論や書籍が各種存在すること自体は知っていたけれど実際にそれらの類に触れる機会も興味はなかったのだけれど、なんとはなしに手にとってみました。批判を加えられている当該の書籍は未読のため、この書の著者達が指摘しているつくる会教科書の内容の是非についての判断は自分としては保留。素直に読むのなら「つくる会」編の歴史教科書は酷い!という印象を与えるのには十分な内容になっている本だとは思う。

ただ、自分はこの本の著者達がやたらと「民衆」という言葉を用いる事、それに「民衆の側の歴史を記述せよ」という訴えをしている事にある種の警戒感というのかな、滑稽さのようなものは感じざるをえなかったです。どうにも支配する権力者と支配される民衆という一元的な対立から歴史の発展を語りたがるような節があって、それは天皇家の神性を利用した皇国史観を語るのと大差がないのではないのかなぁ、などと思うわけですよ。

というのも、かなり個人的な話になるのですが、昔、「史記」やら「記・紀」に始まって、「アナール派」に至るまでの古代から現代までの史書やらや歴史学(観)といったものが時代順にならべられ、それのほとんどに「民衆の側からの視点がない」「権力者の側にたった見方である」といった、ほとんど難癖と思えるような批判が加えられ(「記紀」(六国史だったかな?)に関しては全否定に近い記述で、こんな事が定説になってしまったら古代を対象とする文献史学者は大変だなと思いました。)結局は「唯物史観」を奉ずることこそが現代でも通用する唯一無二の素晴らしい歴史学のありかたである!みたいな結論付けがされている素晴らしい書籍を歴史学の講義の教科書として使わされた嫌すぎる経験がありまして(笑)

(笑)なんて使っていますけどそれなりのトラウマです。いまでも。
という事で、とりあえず、「民衆」「民衆」と連呼する輩には気をつけようというのは自分の防衛本能みたいなものになっているんですよね。また、2ちゃんねるにも出入りする身としては「百済」や「新羅」の国名に現地読みのルビが振られているのにも密かに気になるところですが、現在の教科書ではこれが標準なんでしょうか?日本人が使う分には「くだら」「こうくり」で十分なような気もしますし、そのうち「西夏」とか「大月氏国」にもルビが振られたりするのだろうか・・・という素朴というかいやな疑問もわきます。

どうにも、ある種の意識の高い人たちらしい態度がそこかしこの記述からにじみ出ていてね、それが一冊の本として出来上がってしまうと胡散臭さを感じさせるものになっているなぁ、というのが正直な感想でしょうか。いつも以上にぐだぐだな感想ですが。

というか、神武東征の記述を残した上で、あれは大和の王権が自分達の権力の正当性を示すために作り上げた物語だ。そしてそのような物語が成立した過程はかくかくしかじか・・・なんて風には教えていくようにしておかないと結局のところは書かれてあることがそのまま歴史だと信じてしまうような子供を作り上げる結果になってしまうような気もしますが。

これは買ってません。立ち読み。

雁屋哲石坂啓のもの(特に「金曜日」に掲載されているもの)はほとんど漫画と呼びたくもない代物ですよね。弘兼先生なんかの広報漫画の方がまだ読めるというレベルですから。ただ、これだけは断固として主張したい。

「DAWN」は許してやれ。笑えるから。